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第三回ノバラ座まで

*この文章はtime lineとして2018年7月21日から搬入日までの間、随時更新して記した開幕までの記録である。7月21日から9月10日まで連続で更新していくと開幕前日で丁度、52編の日記が出来上がることになるのだが、これは単なる偶然であり、僕も途中、読者より知らされた。また会期終了後の9月17日が中井英夫の生誕日であるのも、申し訳ないが、単なる偶然である。

9月11日から開催する第三回ノバラ座までの軌跡を日記のように綴ってみようと思う。この文章が終了する時、第三回ノバラ座の幕は開く。

「どのような写真を撮ればいいのか?」

 Kが訊ねるので「ゴシックでいいのですよ。何時もの貴方のようにね」——応えたのですが、Kは慎重そうな顔つきで「君のゴシックと私のゴシックでは異なるだろう」、新しい煙草に火を点けるのでした。

「そりゃそうだ。でもこの際、僕のゴシックはどうでもいい。貴方が撮るのだから貴方のゴシックなんです」——自分の煙草に火を点け「時に、K——。貴方のゴシックは?」、逆に問うてみた。

「喩えるならね——」

 Kは薄暗い店の中で人差し指を空中に立てました。その方向に何かがある訳ではない。Velvet Undergroundが流れている。スクラッチノイズが激しい。この店ではレコードを流している。

「Velvet Underground?」

 Kが頷きました。

「それがゴシックであるならとても、解りにくい」

 僕は苦笑する。「でも、それでいい」。

 他の客に聴かれたってまるで構わないのですが、僕は声を潜めました。

「​トランプを作りたいんですよ」2018・7・21穴のあけやすい貝殻とドリルの歯が折れても傷すら付かぬ貝殻があって、見た目ではなかなか識別し難い。2018・7・22トランプを収集していると、偶にフランスのトランプなどは絵札がJQKでなく、VDRになっているものがある。これはVがvalet(従者)としてJ(ジャック)に当たり、DがdameとしてQ(クゥィーン)、RがroiとしてK(キング)に当たるだけのことである。僕も自分のトランプではこのフランス式表記を採る。解りにくいという苦情もあろうが、僕が作るのであるから嫌な人は買わなくて宜しい。芸術家は何時の時代もフランスかぶれがいい。2018・7・23Kとは昨年、第一回にここで展覧会を行なった時に知り合った。ボタニカルスペシメンを買ってくれた。自分よりも目上の男性が選りに選ってボタニカルスペシメン——といえば聴こえはよいが要は雑草の押し花である——を購入するとは……。「妻がね、好きなんだよ」そういったので奥方への土産なのだろうが、土産ならもっと適切なものがある。この展覧会の本質を見抜いている——僕は勝手にKに好意を寄せた。やがて人伝てにKが写真家であることを知らされ、半年も経たぬ間にふとした場所で再会をした。京都という街は狭いから、こういうことはごく自然に起こる。

「52枚のトランプの裏は当然、同じ模様出なければならない。僕が作りたいのはね、表のスートが刻まれている面を、一枚の写真で52等分する——パズルのようにね、全部並べると一枚の写真が現れる仕掛けのものなんですよ」

「くだらない発想だ」

 Kは吸い終えた煙草を灰皿に捻じ込みました。

「だが、くだらない発想こそが芸術だ」2018・7・25最近、寺山修司を読んでいる。僕にとっては時代的に微妙に遠くもなく近くもなくの人であるからか、その頭に付く“前衛”が気恥ずかしく、全容を敢えて追ってこなかったのだが、やはり幾つかの短歌は心得ている。「マッチ擦る——」これは寺山を全否定したくとも現代短歌、否、戦後文学の最高峰であろう。急に彼の他の句を時系列で知りたくなり、『寺山修司全歌集』を買った。歌集を読んでから映画『田園に死す』を観ると、前衛云々はささやかな問題で、映画、芝居、歌以外のあらゆる作業が己が句を大衆向けに焼き直したものであるが解った。早成の詩人は三一音で到達したが故、もはや70年代には、やることを失くしてしまったのだ。寺山のデビューを急かせたのは、当時『短歌研究』の編集長だった中井英夫であった。ネフローゼと診断されていた寺山に生前、この天才に一冊でも句集を出版させてやりたいと願った中井の尽力で、1957年、寺山21歳の時、『われに五月を』が出版される。2018・7・26「シンメトリーを好むものは分裂症なのですよ」——今回のエキシビジョンで販売物とは別に展示しようと考えている中に、中井英夫の『幻想博物館』が、ある。平凡社・刊の匣本である。『悪夢の骨牌』『人外境通信』『真珠母の匣』、四つの連作が揃って、『とらんぷ譚』だが、僕の手元にある『幻想博物館』はちと希少なものだ。当時、中井はこれの初版を気に入らなかった。後に刊行するものには幻想の画家、建石修志の精緻な挿画が入るが、これに限っては建石が関わっていない。従い、中井は増刷時、建石の装幀と挿画で作り直したいと大いなる我儘をいった。そして本当に二刷を建石バージョンとして改めたのである。だからして『幻想博物館』は72年の初版より、75年の第二版の方が古書の世界では珍重される。市場には滅多に出ない。僕もかつて血眼で探した。酔狂といえば酔狂でしかないが、中井英夫の書物は、それをさせる魔力を有するのだ。僕は或る時、思い掛けず安価でこの第二版を手にいれた。銀の薄い髪に刷られた建石修志の口絵……。それは戦慄する程に美しく僕は、この本を手に入れる為なら人くらい簡単に殺せるな、と思った。美しい本が好きだ。それは必ずしも潤沢な予算が必要な訳ではない。美に対して敬虔であり、怜悧な熱情で一分の隙もなく構築された水晶のような本に、僕は焦がれる。外面のみが華美ならば却って書物は価値を失うだろう。一言一句美しく整えられた言葉だけが奢侈なる装幀のローヴを纏えるのだ。「彼の名を鏡に写してみて下さいよ」——僕は中井英夫の名を鏡に写す。鏡面でも中井英夫だ。この作者の名はシンメトリー、四文字全て、左右対称なのである。僕は幻戯に立ち眩む。「本名なんですよ」——「まさか……」——「それでは生まれついての分裂症患者ということですか?」。何時か、一冊くらいは匣本の小説を出したい。その為に僕は、まだまだ己の言葉を研磨しなくてはならないと思っています。2018・7・27ライト商會の主人達は、僕のことをタケちゃんと、呼ぶ。知り合ったのは僕がまだ高校生の頃だったから、まだ野ばらではなかったのだ。余りに野ばらという名前が浸透し過ぎていて、親しい友人ですら僕に本名があるのを奇妙だと笑うし、僕自身も、自分は野ばら以外の何者でもない感覚につい陥るのだが……この二人から野ばらちゃんと呼ばれるのもまた想像がつかない。というかもはやこの二人だけである、タケちゃんと呼ぶのは。同窓会のようなものにはまるで興味がないが、野ばらになる以前、骨董好きの只の妙な高校生だった僕を受け入れてくれていたのだから、この二人、そしてライト商會に対しての損得勘定みたいなものは僕の中に全く起こらない。恐らくは彼等の中でも、作家であることは心得ているが、それ以前に僕は単なるタケちゃんでしかないのだろう。そのような人達がいるというのは妙に心強いものだ。同じように本を読んでくれていても、手紙をくれても、彼女と君は僕にとって異なる人だ。握手をしても、彼女とする握手と君とする握手には、一切同じ部分が、ない。ある筈はない。もし少しでも似ているのならば、握手をする必然性が、そもそも存在しない。同じであるのなら、僕は自分が文章を書く意味を見出せないだろうし、苦労してこのような変なイベント、エキシビジョンをやろうとも思わないだろう。どれだけ親しくなろうとも、君が僕をタケちゃんと呼ぶ日はやってこない。やってきてはならないのだ。2018・7・28さる大学の精神科主任教授という地位を離れ、資産のすべてを傾けて風変わりなこの病院を建てたのは、大学にいては到底得られない、彼自身の期待を充たすためらしかった。というのは、ここでは患者の身分や貧富の差などはいっさい問題にしない代り、彼らの妄想や幻覚が類似的でない場合に限って入棟を許可していたからである。(とらんぷ譚——幻想博物館『火星植物園』より引用)2018・7・30前回のノバラ座で貝殻のオブジェに関し、僕は日本での古来のスラング同様、フランスに於いてもコキヤージュは女性器を意味する俗語であるを示した。中井英夫の『火星植物園』には植物——薔薇の地下の根——に支配されたい官能が描かれる。地上のFlos(花)でなくRadix(根)——こそがエロスのフォルム、薔薇が肉体を侵食し、その根が己から養分を吸い上げるを想像する男の奇想が登場する。男は植物が根を貼る為に肉体に苔のようなものが寄生し、培養地となればいいと考える。「緑の鱗めいた手の甲が——」読み返し、かつて記した『鱗姫』を想い出す。皆、同じようなことをイメージすると自分の想像の凡庸に苦笑しつつも、しかし大事なのは“鱗めいた様子”に肌がなることではないのだと、改めて思う。“得体の知れぬものが身体に寄生”するのが悍ましくも厭らしくて、いいのだ。僕も君に寄生したいと思う。君を寄生させるのではなく、君の密やかな部分に、寄生したいと思うのだ。2018・7・31『われに五月を』のエピグラフに、寺山修司はジュール・シュペルヴイェルからこう引用する。「貝殻を耳にあてては、この音でもなかつたと海の底へ投げ捨てる」。さて僕は今回のエキシビジョンにどんなエピグラフを与えよう。

なべての愛を根に——で、いいのではないかね」

 Kはいう。そうかもしれない。

「それよかだ。考えてくれ給えよ。君が思っているよう13枚のカードをスペード、クラブ、ハート、ダイヤで四列に並べようとするとね、横長の——いわばパノラマ写真のようになっちまうんだ。それは構わない。しかしそのような写真は52枚に切り分けた時、どうしても何も写っておらぬかに思えるものが出てくる。それでは不親切だ。挿入する文章をくれ給えよ。短いもので構わない」

ひとり殺してもかまわず、ひとり裏切ってもかまわず、ひとり愛してもかまわず、ひとり誤魔化してもかまわない」

「何処からの引用だね?」

僕が考えたんですよ。スペードは騎士、クラブは農夫、ハートは聖職者、ダイヤは商人。——ならば、これでいい」

 Kは眼を細めた。褒める、または同意する時の彼の特徴だ。

腐っても小説家ってことだね」

小説家だから腐っているんです」

 中井英夫は——小説は天帝に捧げる果実、一行でも腐っていてはならない。——と書いた。僕もそう思う。しかし腐っていてはならぬのはその文章であり、書く者ではない。腐った騎士に渡し、腐った農夫が収穫する。腐った神父が聖別し、腐った商人が商うものであっても、果物が腐っているべきではないように……。

だけれども、トランプを入れる紙箱は、まるで腐食した鉄の箱のようにデザインしたいんです。貴方のゴシックのようにね」

「くだらない発想だ」

​ またKは、少し呆れたように同じ文言を繰り返しました。2018・8・02オブジェクトを麻紐で括る、縛る——という行為をノバラ座で僕は頻繁に行う。第二回は、暇な時、入り口に置いてあった消火器までぐるぐる巻きにしてしまった。のですが、いわゆる緊縛(サディズムとしての)には余り関心がないのです。僕の場合、麻紐を空間に張り巡らせたり、ネックレスのチェーン代わりにすることに関心が、ある。蜘蛛の巣をイメージすると解り良いかもしれません。『火星植物園』の植物のRadix(根)のイメージも恐らくは、緊縛でなく、麻紐の行為に近い気がします。対象を縛り物質とするのでなく、対象と対象を線で絡げることで概念化する。例えば、化学で用いる構造式のようなものにも僕は同様の関心を抱いてしまいます。聴こえ良いですが、要するにエロチシズムを感じるのです。人体に張り巡らされた血管だったり、脳、神経細胞の画像などにも。それに侵食されたいと思う。これはマゾヒズムなのでしょう。『火星植物園』では根への欲望を語る車椅子の男は白人女に愚弄される。この図式は沼正三の『家畜人ヤプー』を容易に想起させます。2018・8・06Kには悪いのだが、僕には写真を撮るのを好む人の思考が解らない。撮られたい気持ちは解るが……。従い、必要以外に自分では撮らない。これまたKには申し訳ないが、僕は写真を芸術の範疇に入れていない。或るスポーツでの或る試合が必然として芸術になる、或る殺人が或る状況下に於いて芸術以外のなにものでもないことが起こるように、稀に写真が芸術になる場合があるのは知っている。半世紀生きてみると、自分が最も好きな美術家は誰でどの作品だろう?——自答して悩むことがある。結果、僕はバルテュスやクレーを差し置き、ハンス・ベルメール——部分が入れ替えられた少女人形——なのだ。幅を日本人に狭めると、沢渡朔の少女アリスなのだ。どちらも写真であるに自身が驚いてしまう。写真のことなぞほぼ知らぬのに……。そしてまたしてもKに失敬だが、写真を撮るを好む人間を、僕は百パーセント、救われ難き変態性欲者だと確信している。2018・8・07ポリエチレンの小さな容器に白いラムネ粒を詰め、蓋をして、容器にNDMAと記したラベルを作って貼る。中井英夫の為のエキシビジョンなのだから幻覚作用のある即売物が必要だ。無論、MDMAではないのでいくら摂取しても甘いのみである。香水のミニボトルにも観える。一時期、流行ったし、僕も無意味に集めたものだ。香水はノートで選ぶに非ず、ボトルで選ぶ。身に纏うノートはDiorのFahrenheitだけでいいし、他は置いて眺める目的しかないので姿形が美しければそれでいい。2018・8・08写真(ポォトレヰト)を撮られるのは久方振りだった。一時は雑誌の取材やら何やらで毎日のように写真を撮られていた。作家なのに何をやっているのだろう? ロリータで臨む際は衣装であれ日常なのだから気にとめることはなかったが、陰陽師の格好をさせられたり、山道をひたすら歩いた後、強風吹く崖の上に立たされる被写体になった時などは、ふと思ったものだ。

 Kが出来上がった写真を持ってきた。ライト商會を貸切、一日掛かりで撮った膨大なデータを確認していく。そこには“かつての美形”ともはや過去形で記さねばならない老人の姿しかなかった。撮られ慣れているので眼光や顔の向きなどはフォトジェニックであるよう計算してはあるが……。

「老人ですね」

「そりゃそうだろう」

 Kが冷淡に返す。

「若くは観えない」

 老人が花の冠を被っているからグロテスクなのではないだろう。

「これなんぞはいいと思うがね」

 Kが指した写真は、どうしたらこんなに悪い眼付きになるのだろうと自分でも訝しくなる、偏屈極まりない表情の横顔を捉えたものだった。

「そうですね。かなりいい。後五年もすればこの嫌な眼付きが更に嫌さを増し、川端康成のようになるのかもしれない」

 ふと、そういえばナルシストであるにも拘らず、これまで一度もデスマスク——否、死んでいないからライフマスクだ——を作ろうとしなかったことに気付いた。作ろうとは思っていたのだが、つい忘れたまま今に至ったのだ。

「それはまだ自分が完成したと思ったことがないからだろう。美貌に関してもね。当然これからどんどんと衰えていく。それを含め、君は自分の顔が昔よりも良くなったと鏡を観て思うのさ。今後もね。末期の衰弱した骨ばかりの顔容ですら君は、ここまで苦悩に溢れた様相はかつてなかったと褒めそやす」

「ゴシックでしょう?」

 冗談めかしていうと、Kは頷いた。煙草を丁度、切らせたようだった。僕は「これでよければ」——自分の煙草の箱を前に押し出した。

最近は貰い煙草を当然のように自制するようになってしまったね」

 Kは差し出した箱から煙草を一本抜いて、それに火を点けた。

「昔はこうして貰い煙草をする時、一本余計にくすねる主義の奴等がいたよ。セコいから当然、陰口を叩かれる。でもよもやそれを今の時代にすれば、セコいでは済まされないだろう。充分な罪悪と認められる」

 自分より長く生きている人間が眼の前にいることを僕は心強く感じる。この世界を嫌悪しながらもそれでも自分より歳月を重ねている人物がいることに妙な安堵を憶える。己が生き永らえていることに不信感を持っているが、死に損なったのだとは思わない。そう思う時期は、とっくに通過してしまった。2018・8・09プレート作成の為に『とらんぷ譚』を読み返す。「薔薇の獄」というタイトルの短編があったことに、今更、気付く。ほぼ、僕の名前のアナグラムだ。未だに「嶽」は「獄」に間違われるし……。ないのは「本」(book)だけというのも妙に因縁めいているではないか?2018・8・10ふと調べてみる。中井英夫・1922年9月17日生誕——。ノバラ座は9月16日まで。次の日が誕生日だったか……。ヤベぇな。2018・8・11音楽家達は舞台で演奏をする。客席を潰した下の急拵えのステージで、縄師が女を吊るしている。その様子をKが撮り、写真はそのまま舞台後方の壁に大写しになる仕掛けだ。ライヴハウスで前衛音楽に合わせ緊縛ショーが行われるのは珍しくない。只、その撮影者が——単に記録者ではなく——アクターの役を与えられる場合はそうない。最も罪深き者は誰か? 撮影者だ。かつて秘密裏に行われたブルーフィルムの上映会。卑猥なのはフィルムに写る性行為の男女ではなく、撮影者でもなく、こそこそと、しかし大いなる困難を乗り越えてまで上映会に参加する者達だ。ライヴイベントとして緊縛がなされる場合、観客はブルーフィルム愛好家達とは異なる良識を持つ鑑賞者だ。だからここでは、卑猥の所在が不明となるケースが多い。この日、最も卑猥なのはKであった。縄師でも女もでもなく、観客でもなく、Kのみが卑猥なのだった。写真家は被写体に近付く者とそうでない者とに分かれる。Kは後者だ。脇を締め腕をひいた姿勢でシャッターを切る。距離を縮めず、上半身を反らし気味で頭を被写体から遠去けることの方が多い。視姦者——。壁に大写しになった画像はKの妄想だ。眼に写るものを撮るのではない。眼に入れたいものを撮る。写真家は自らの手を汚すことなく、極北の陵辱をする。誰に勘付かれることもなく……。人前でこのようなことをするのは初めてだという。長い付き合いである縄師から頼まれたのだと、Kは僕に事情を話し招待をくれた。恐らく多く経験を持つ縄師は気付いていたのだろう。これまで本当の罪人が何時もステージに不在であったことを。2018・8・12まるい穴に紐が通され(穴と穴が紐によって)、オブジェクトと連絡すること。それはピアノという装置を、僕に想起させる。弦楽器であり打楽器であるピアノの中に設えられた音の出る仕掛け。ジョン・ケージのプリペアドピアノ。整列した弦達にフォークや釘を引っ掛ける調律。打楽器に近付くことで絃楽器であるを意識させられる可愛いくもエレガントな音(行為)。点(まる)と直線をつなげるもの。紙を置かれペンを渡された子供が最初に描くのは点であり、線であり、まるである。そして彼等は結ぼうとする。何故か、結ぼうとするのだ。2018・8・13「どう、ちゃんとあなたの肩に大きな翼があるのが判るでしょう」「ええ、判ります。とても強い翼です」「そうっとそれを羽撃かせて、ええ、そう、あたくしのももうこんなに大きく動いているわ。さあ、あなたが先へ飛ぶのよ。あたくしたち二人で作りあげたあの聖なる街へ行くために。よくって。あたくし、もう待てないくらい」柚香はほとんど息をつめていた。——中井英夫『大星蝕の夜』より引用。2018・8・14どうして結ぼうとするのだ? 離れた場所にある星と星との間の直線距離を——。無数に散らばる夜の中から一つ、二つと指差し、星を選び、白鳥だったり大熊だったり天秤の姿に見立てようとするのか? その結んだ星と星はねぇ、とてつもなく離れている。否、時間そのものに大きな隔たりがあって、たとえ君がどんな長い長いロープを用意したとてもさ、それぞれに打ち込んだ杭と杭とにつなげることなぞ出来はしないのさ。——そう僕は、いい切ることがならない。つなげるのではないかな?と思ってしまうのだ。無論、つながなくていい星と星との関係性の方が遥かに多いのだけれども。秋の星座。アンドロメダ、魚、カシオペヤ。顕微鏡、ペルセウス、ペガサス。芝居の一座のことではなくてね、ましてや映画館のことでもなくてね、最初は架空の星座を意味するものとして思い付いたのさ、この名前はね。今となっては演劇であれお店であれなんだってよいのだけれどね。2018・8・15硝子のスライドに外国の薔薇の切手を挟む。letter specimen(手紙標本)と名付ける。プラスチックやアクリルなら簡易で安価なのだが、硝子製があったのでそれを用いることにする。どんなに巧妙でも硝子の質感には敵わない。フランシス・ベーコンは自分の絵画を敢えて硝子のカバー板で額装する。絵と鑑賞者の間に硝子を介在させることに意味を持たせる。眼の前にあるが膜に隔てられている——膜とはベーコンにとって他者であり自己であり、意識なのだろう。ルドゥーテの『薔薇図鑑』から採られた一葉を手に入れた時、自分で額装を変えた。大体の絵は額もマットも変える。薔薇に偏執した中井英夫の為、この一葉を展示することに決める。2018・8・16本当に中井英夫の為なのか——? お前自身の為ではないのか——?2018・8・17急に中原淳一へと飛ばそう。僕が最も好きなエピソードはひまわり社で『ジュニアの日記』を出した時のものだ。売り切れ書店が続出し、手に入れ損なった人からの問い合わせに、もう持ち分はないのでと謝罪するしかなかった——まではいい。困ったのが買えると思い込んで、封筒に現金を入れて送ってきている人達への対応で、この人達の分だけでも何とかせねばと、ひまわり社総出で、都内の書店を探し回り在庫を売って貰い、送り届けたらしい。通信販売をしているかどうかも確かめず、一方的に現金を郵送するとは戦後ならではの呑気な世相だが、「皆さんをがっかりさせてはいけないと、ずい分探しまわりました」という言葉に深い感銘を受ける。ないものはないのだからと返金されてきた封筒の中身を観て、少女達が泣き出しそうになる顔を頭に浮かべると、どうしても届けなくてはならないと思ったのだろう。がっかりさせてはいけない——。僕はこの言葉をよく想い出す。身の不始末はしょうがない。だが作るものに関しては常にそう出来る筈だ。がっかりさせてはいけない。書店へと急ぐ道のり、或いはサイン会に並ぶ待ち時間の一秒ですら、読者をがっかりさせてはいけない。それだけのものが作れないのなら、出す必要はない。偶に流れ作業をしていると、封筒に皺が入ったがまぁいいか、と思ったりする。その時、淳一が頭を過るのだ。天帝に捧げる果実。一行でも腐っていてはならない——という中井英夫の言は、僕にとって淳一のがっかりさせてはいけないと同義だ。イベント参加者へのエチュード台本の用意をしながら、そんなことを思った。2018・8・18日記というものは昨今、流行らないだろうが、始める時、今日から日記をつけ始める。今日は特にそれよかないので明日にしよう。——で開始し、次の日、また今日も特に何もなかった。その次の日、またまた今日も何もない。——余りになさ過ぎ、日記自体を止めてしまうはよくある話である。が、何もない訳ではないのだ。日記を書くと決めた瞬間に、書くに値するものと値せぬものを分けてしまうから、わざわざ書く必要のない日常がクローズアップされるのである。時に日記を記す為に出掛けてみたりする。余計、捏造を感じ、書く気がしなくなる。世界が動いているのではなく、私自身が動いていることに気付けなくなっている。綺麗なものが眼の前に現れるのではない。綺麗だと感ずることが私の中に現れたのだ。普段、路傍の草花は意外と綺麗だと思っていても、カメラを携えて行くと、それほどでもなかった、平凡極まりないと失望してしまうのは、カメラを持つことに拠って分けてしまうからだ。よく観察すると風景が平凡であったのではなく、分けることで己が平凡になってしまったのである。僕はよくそんなに次から次へと書けますねといわれるが、小説やエッセイも同様で、別にアイデアが浮かぶ、珍かなことに遭遇するから書けるのではない。書こうとして単にパソコンの前に座るのみである。自分の中へ眼を遣ればいいのだ。インスタ映えする場所へ赴く——など全く無意味だろう。面白いものを取りたいなら、部屋にあるゴミ箱の中の様子の方がよっぽど興味深く芸術的だ。2018・8・19かつて文学を諦め美術に行こうと決意したのは、文章では抽象を表記するのが至極困難であるからだった。縁あってか随分と文章で暮らすことに結果、なっているが、今、また抽象の問題が眼の前を塞いでいる。若い頃と異なるのは、抽象を文章化出来るという自負が生まれたことである。正確にいうなら、美術程度には文章も抽象を語れる。美術とて完璧に抽象を具現化出来る訳ではないのだ。2018・8・20((全ての芸術が数学程には——)と入れておかないと画家に文句をいわれるかもしれない。そしてこれは数学が抽象を完璧に顕せると述べているのでも、ない。諒とせよ。2018・8・21ヤバいなぁ。もう二週間くらいしか残ってないじゃん。制作物の殆ど(トランプ除く)が仕上がってないよ。夏休みの子供状態だ。子供の頃の僕は宿題なぞ絵日記以外は最初から全くやる気がなかった。やらなかったからとて罰則があるでもなく。今回初めて作るオブジェクトの素材である切手が揃う。ガチで切手にハマりそうで、恐い。ちゃんとした切手、見返り美人とかには興味ない。消印があって外国のもので可愛いのに二束三文のものが好き。多分、骨董価値のある切手に走る人と、二束三文切手を集める人、二手に分かれるのだろうな。二束三文切手の収集家に悪い人はいない気がする。意外と集めるの大変よ。台紙を水ににつけて剥がしたりするのは根気がいる。でもってストックブックとかに丸まらないように保管しないといけない。どれだけ頑張って集めてもほぼ無価値。この歳で切手(使用済み)に凝り始めたといったら、多分、バカにされるのでこっそり集めよう。なんで消印があると無価値なのかが呑み込めない。消印、捺されてる方が切手として可愛いぞ。そう、切手って個人でも版下あれば郵便局で作って貰えるのだよね。昔、あゆの切手、買ったもん(まだあります)。今回はトランプ作ったから60歳には切手作ろう。2018・8・22作品には即売物であろうと美術館での展示のように、タイトルの他、制作年やマテリアル、技法などのデータも入れ、短いコメントを添えたプレートを付けることをしている。この作業が意外に大変なのだが、やらないと気が済まない。美術館などで作品を鑑賞する時の、苛立ち、このプレートに記された情報が正しく、これに沿って鑑賞すべし——の断定を僕は愛す。子供用の展示で見掛けるパターン、この絵から何を想像しますか? 答えが複数用意されるプレートは好まない。正誤はさておき、一点にしか行き着けないプレートの高圧の冷たさに心地良さを感じるのだ。全ての文章は誘導である。従わせる為に存在する。法であるといっても良いだろう。言葉は世界を標本のように閉じ込めるのだ。想像の猶予の欠片すら与えぬように……。プレートなしに僕のエキシビジョンは成立しない。2018・8・23正確であることは大事だ。何故、大事なのかというと、誤差を容認する為である。より正確を得ることは、誤差が少なくなるのではなく誤差の活かされる範疇が大きくなることを意味する。これに関して貴方は解らなくても良い。解ろうとする必要もない。解ろうとすれば只、誤差のみが生まれる。解らないままでいるならば(解らないことの正確性が)誤差を包含してくれる可能性を産む。2018・8・24深夜、あてものの籤を作る為にひたすらと厚紙をハサミでザクザクと、切っている。 100均にスピード籤の素材は売っているし、もっとバリエーションを観たいなら包装資材屋にあることも知っているのだが、こういうものこそ、バリバリのハンドメイドにすべきなのだ。カッターナイフすら使わない。プリンターも使わない。時間が掛かって仕方がないのだが、ハズレが悔しくてもう一度引こうと三百円を出す、或いは三等が当たったのにどうしても四等が欲しくて、また三百円を出す、貴方の顔を想像すると、籤そのものについ、手間暇を費やしてしまうのだ。2018・8・25今日もまた籤を只、ひたすらに作り続けている。ペンダントを通販していた時の麻紐付きポーチにもなる封筒を、会場で販売しようと思っている。ポーチにもなる封筒は、中に封入されたタグシールを宛名の上に貼る。タグシールの入っていたビニールには一枚、ランダムに選んだフランスのトランプが入っていて、これもカードケースとして使用出来る。封筒の再利用を思い付いたのは、子供の頃、『キャンディキャンディ』に感化されたからだ。セントポール学園に通うキャンディの許に、生まれ育ったポニーの家から手紙が来る。ポニーの家は孤児院なのでお金がなく、ポニー先生とレイン先生の手紙は、使われた封筒を裏返しにして貼り直したものにアドレスが書かれていた。裏返しの封筒を観たイライザは、やっぱりポニーの家の子は貰う手紙も貧乏だと、皆への見世物にして嗤う。しかしそのイライザの行動を、何時もキャンディを叱ってばかりいる学園院長のシスターグレイは叱咤するのである。心のこもった手紙をみてくれだけで嘲笑うとは、貴方の方がレディとして失格です——と。封筒の再利用を考える時、何時もこのエピソードが頭を過る。今回は封筒とノバラ座のロゴの入ったシールをセットにして販売する。例えばこの封筒に会場内で買ったものを入れて、封をして郵便局から自分宛(或いは誰か)に出せば、スーベニールが郵送され、更にポーチも手に入るという趣向である。フランスのトランプも一枚、付けることにする。通販の時は僕が選っていたが、カードを裏向けにして購入者にひいて貰おうと思う。この度のノバラ座はあてものといい、籤引く作品が多い。即興性を多様し、演劇としてのダイナミズムを空間に取り入れるのである。何故、シスターグレイはイライザを叱ったか? 貧しい人の倹約を恥ずかしいと思う気持ちこそ恥ずかしい——もあるが、質素な材料であろうと全ての手紙はオリジナルとしてかけがえのないものであることも知らせたかったのだろう。来た人、買ってくれた人の持ち物に更にオリジナルの物語を与えたい。今回の即興性はそういう意味でも取り入れる。2018・8・26あてものの一等を作る。造形してあった紙粘土(下手とかいうな!)に絵の具で色を塗る。100均で買ったものだが、久々に絵の具をパレットに取り、筆と洗うバケツを用意する。色鉛筆などで絵を描くことはしてもパレットに絵の具でということをするのは久方振りだ。多分、もう二十年くらいしていない。かつては毎日やっていた作業だが、極度に緊張をした。パレット上で赤と白を混ぜる、水を足して絵の具を薄くする……そんな当然のことへの集中の方法は文章を書いたり、パソコン上でデザインをする時のものとは全く異なる。着色し終え、身体の変な部分があちこち痛いことに気付く。使う脳味噌の部位も筋肉も文章と比べると沢山で、文筆が縄跳びであれば絵の具で絵を描くはトライアスロンといっても過言ではないとすら感じた。長年の慣習で僕はもう、文を書くというヘタレたことよか人並みにやれん。粘土細工を作ったくらいで何を大仰な——笑われるだろうが、文筆家よか画家の方が偉いのは当然として、画家よか彫刻家の方が、偉いとする持論をこのついでに記しておこう。なべての芸術の中で彫刻は最も偉い。ルーブルには一度しか行っていないが、余りに作品が多過ぎて一点一点の記憶が定かではない。モナリザとか、どうでもよかった。鮮烈に、焼き付いているのはサモトラケのニケのみである。2018・8・27鉱石のオカルチッックなパワーに関して興味はないが、気に掛ける人もいるので簡単に記す。今回、鉱石は水晶、ローズクォーツ、ガーネット、ラピスラズリ、黄鉄鉱を展示販売する。ローズクォーツは恋愛運をあげるとされる。ガーネットは目標達成の運気を上げるという。ラピスラズリは邪気を祓い心を鎮静させ幸福に導くとされる。黄鉄鉱はエネルギーを満たすとか身を守るとか説明される場合もあるが、火を象徴するくらいで特に本来、パワーストーンとして扱うものではない。扱いたい人がいるので無理矢理、謳うのだろう。ラピスラズリの結晶に黄鉄鉱が含まれることの方が僕には興味深い。パワーストーンとしてローズクォーツ、ガーネット、ラピスラズリはどの組み合わせも悪くない。多少、バランスが悪い場合は水晶を混ぜると安定するとされる。水晶は万能なので石と石の力の調和すら任されてしまうのである。浄化してから石を使うべしとも聴くだろう。浄化済みとして販売する怪しいものもある。僕は展示販売する鉱石の浄化など全くやらない。選んで持ってくれば、僕が手に取って袋に入れるのである。それ以上の聖別があろうか? 聖なるとは邪悪を駆逐することではない。最大に聖なるものは最大の邪でもあるのだ。聖なるものだけを求めることは出来ない。パワーバランスのようなものがあるのだとしたらそれは位相(トポロジー)を示しているのだろう。最近、硬石膏を買った。青い断面を持つ石である。調べれば開運のストーンだとかいい加減な説明がやはり出てくるが、大体、ネガティブな効能を課せられた石があるだろうか? 硬石膏は断面が天使の羽のように観えるのでエンジェル石と渾名される。こいつ、エンジェル石……。可愛い……。そう呼ばれることがこの石の効能の全てではなかろうかと僕は思いながら、机の上、その横に平べったい、やはり青の藍晶石の欠片を並べてみた。2018・8・29明日にします。2018・8・30もう一日、延ばします。2018・8・31もう一日……。何を一日、また延ばしたというのか?

「君への死刑宣告さ」——。

 業者から納品された完成したトランプの一枚ずつの仕上がりを確認しながら、Kは僕にそういった。

「聴いたことが、ある。戦争ばかり撮っていたカメラマンにね。戦場、死にゆく人々にファインダーを向けるを人道に反すると譏る人もいる。可否はさておき、彼から教えられたのは、兵士であれ無関係に撃たれた子供であれさ、自分の姿を捉えているものが写真機だと解るとね、にやり微笑むのさ。眼前の死を免れることが出来ないと悟った人間は、概ね、可笑しないいかただが……ポーズをとるのだという。誰が相手でもいいから、死ぬ寸前の己を定着させようとするのだそうだ。その時、被写体は不可思議な芳香を発するという。淫靡だが実にいい匂いだそうだ。実際に死ねば、身体は腐敗臭を発するようになる。花と同様だと俺は思った。咲き誇る花の香は萎れれば臭い。君を撮影していた時、俺は奇妙な匂いを嗅いだ。恐らくそのカメラマンが嗅いだであろう芳香と同じ類だ。この写真にせよ——」

 Kは言葉を切ると、かつて、これなんぞはいいと思うが——と僕に示した嫌な目付きの写真——結局、それはトランプには使わなかったのだが——を、傍に置いた鞄の中の黒いファイルから取り出し、眼の前に差し出した。

「君はこれをトランプの裏面に使おうとしたが俺は反対したね。使ったなら、このトランプの札が君の遺影になる。俺にはそれが解ったからなんだよ」

「貴方は、僕の死に猶予を与えることにした?」

 Kは質問に応えなかった。薄暗い店の中では、またVelvet Undergroundのレコードが掛かっている。Lou Reedが朗読するように歌う『Gift』という名の曲が響いている。曲名を僕が端的に呟くと、Kは少し前のめりになり、新しい煙草を箱から引き出した。その所作が僕の眼には、頷いたように映った。2018・9・01「別に君が何時、死のうが俺には関係ない。それが明日だったとして、余りにも早過ぎるとは誰も思わない。——君は自身をもはや老人だと嘲るが、そんなに的外れでも、ない。只、俺の撮ったものを遺影にされるのは一寸ね。まだ知り合ったばかしだ。巻き添いになるにはもう少し時間が欲しいところさ」

 Kは返事の替わりにそう告げた。

「煙草を授受する仲じゃないですか」

「昔は通りすがりに見知らぬ人から煙草をたかられることなぞ、普通だったさ」

 百円ライターで火を点けようとしたが、生憎Kのそれはガスが切れていた。僕のライターも丁度、オイルが切れたところだった。Kは遠くにいる店の主人に火を貸して欲しい旨をゼスチャーで示す。まもなく主人が蒼い燐寸の箱をテーブルに置いて、戻る。Kは燐寸棒を取り出し、その先を引っ掻くように壁に当てた。棒の先が発火する。

「蝋燐寸を用意しているとは全く悪趣味のペダントだよ」

 しかし動作は手馴れていた。Kに倣って煙草を銜え、壁で燐寸を擦ってみる。棒が折れた。Kはそれを観て笑い、新たな燐寸棒を今度は床で発火させ、僕に向けた。僕は火を貰う。

「若い頃、何度も練習するんだよ。人前で格好つけたくてこっそりね。君のように折るのが一番みっともない」

 僕は頷いた。若い頃、誰もが火の点け方を、ネクタイの結わえ方と緩め方加減同様、熱心に練習する。様々な動作を僕等は練習する。苦悩する表情、そして死に方すらも……。

「まだ、僕は死に方がよく解らない——」

「熊にでも喰われることだ」

 一度も思い付かなかったが、いいアイデアだ。僕は、

「練習しなきゃ」——と返す。

「ああ。熊に喰われるのは難しいからな」

 真顔でKは応えた。2018・9・03「死ぬのは簡単だと人はいう。しかしどんな死も困難なんだ。そのようにくだらぬ理由で死ぬとはね——というのは、癌よか風邪で死ぬ、もしくは石に蹴躓き転んだくらいで死ぬとはね——といっているのと同様さ。熊に喰われて死ぬもチフスで死ぬも困難さを比べれば大差ない。俺達は皆、死に方を殆ど心得ていない。俺の方が歳が上だからね、君よか多少、心得ているってくらいで、それは蝋燐寸を上手く擦れるか擦れないかの差に過ぎない。だから上手い具合に死ぬ為にはひたすら、こっそりと練習を続けるしかない」

 Kは来る時についでに店の主人が空のものに変えた灰皿に落とした先程の燐寸の燃え殻の上に二本目の燐寸を捨て、更に燐寸箱から幾許かの新しい燐寸を重ねて置いて、一本壁で火を点け、それを燐寸達の中に差し入れた。灰皿の内から小さいながら火炎が上がる。

「流薔園のようだ」

 しばし燃え続ける様子を眺めながら、僕はいう。

「——『とらんぷ譚』の舞台である精神病院の最後かね? あれは火事で閉鎖するのだっけ? 俺は一人の患者がライフルで来賓を撃ったからだと記憶するが……」

 Kが遠い過去の出来事を想い出そうとするかのよう、妙な顔付きになった。

「漏電で火事になるんですよ」

「それは『ドグラ・マグラ』だろう……。猛火に飛び込み無残の焼死……。あれっ?」

 Kは言葉に詰まっていた。そして灰皿の燐寸達が燃え尽きる頃、

「もう一度、読み返しておくよ」

 僕に述べた。

「——『ドグラ・マグラ』をですか?」

「——『とらんぷ譚』に決まっている」

 Kは腹を立てるかのような口調で僕に、返した。

「『ドグラ・マグラ』を読み返すゆとりなぞ、もう俺の人生にはない」2018・9・04ここS**精神病院で、火は当然のように不可抗力の真夜中に出た。何時だ? 午前一時。正確にいえば午前一時十四分。原因は? ぬかりなく“漏電”。それも便所の天井からいきなり火を噴いたことになっている。彼らの指定した患者、すなわち処分に値する“不治の”連中は、あらかじめ選ばれ、一か所に集められていたのか。——僕もふと不安にになって『とらんぷ譚』を読み返す。ハートのスートにあたる『人外境通信』の最後の『薔薇の戒め』にはこうある。しかし、『幻想博物館』の『薔薇の夜を旅するとき』に倣うならば、Kの意見が間違っていることにはならない。——「“不治の”連中は、あらかじめ選ばれ、一か所に集められていたのか。」僕はこのセンテンスを唱えるように何度も読み返した。今日もポリエチレンの容器に、MDMAに似せたラムネの粒を詰めている。不治の連中にこれを売るのだ。光沢のあるラベルにTANTUS AMOR RADICORUM——なべての愛を根に——『とらんぷ譚』の文言をプリントして貼れば、どう考えても安価なポリ容器だし中がラムネであるは明らかなのに、香水瓶に幻覚剤、或いは毒薬が入れられているように観える。言葉は嘘を吐く為にあるのだ。虚偽を現わそうとして言葉は生まれた。言葉が語れぬのは“真実”のみだ。この世界に存在する書物やノート、電子空間や肩書きや説明書き、あらゆる会話と思考が虚偽ならば……。不治の連中だけがまともなことを語ろうとしている。故に処分に値するとして一か所へ集められたのだ。焼かれる、真実は跡形もなく焼かれる、事故として——ぬかりなく。2018・9・05小説なぞ嘘偽り、出鱈目ばかし書いておればいいのであるから、特に難しいものではない。辻褄がどんとんと合わなくなっていけば——という夢をみた……、でいい。または、私はもはや錯乱したのか!と大仰に作中、叫んでみればいいのである。最悪の場合、未完でも構わない。プルーストの『失われた時を求めて』すら未完だし、ドーマルの『類推の山』なぞは未完であるが故に名作だと評されているではないか。哲学に於いてもハイデッガーは『存在と時間』の執筆を途中で放棄しているしマルクスの『資本論』はどこまで書き上がっていたか不明のまま、遺された草稿をエンゲルスがパズルさながらに組み立てた。それでもハイデッガーの論考は二十世紀の思想に膨大な影響を及ぼし、マルクス主義は国家のパラダイムを変更した。真実を書こうとするから日記が書けなくなる。人に観せる為のものでないのなら、日記こそ嘘八百を並べ立てて一向、構わない筈だ。僕達は測量士ではないし、会計士でもない。記録や計算が間違っていようと誰に叱られる訳でもない。今日、君は僕を愛しているといったね。だけど明日には愛していないかもしれない。今日いったことすら嘘かもしれない。今日、死にたいのなら今日の日記には死にたいと書け。翌日、やっぱりもう少し生きようと思ったなら、もう少しだけ生きますと書け。昨日の日記を読み返す必要はなく、ましてや丁寧に訂正する義務もない。大事なのは、誤字脱字をしないことだ。文章に於ける最大の悪は、誤字脱字である。2018・9・06夜半、正確には午前三時四十分、先程強く雨が降り始めた。確か昨日の晩も同じ頃、雨が降りだしたように思う。例えばこのように綴られたとして、その時刻、ここに実際にいて、雨を感知した証明になぞなりはしない。僕という存在を君はどうやって証明する? いいかい、一つの仮説を立ててみよう。僕なぞいやしないのだ。誰かが偽って架空の作家を作ったのかもしれないし、君そのものの幻想、空想上の人物なのかもしれないがそれはさておき、一旦、僕という人間はおらぬ前提からスタートしてみるんだ。君は覆すことが敵うだろうか? 覆してご覧。写真なんてものも宛てにはならない。幻でも虚偽でもないことを数学的に立証してみて下さいよ。出来ないというなら、僕の名を呼ぶな。僕に語り掛けるな。僕の仕業だと吹聴するなよ。ということは、「——それが出来たなら、呼んでも、語り掛けてもいいってことなのかね?」「そういうことになるね」「君に罪を着せ、君の仕業にしてしまっても構わないということかい?」。Kが訊ねるので、僕は「そうだ」と頷いた。「でもそれが適ったからとて、俺が実在することにはならないね」「そうだ」、僕は再び頷いた。「だってKじゃないか。ゼロ以外——つまりfield——体なんだよ、貴方は」「キングではないのだね」「僕達の作ったトランプはフランス式だからKはロワ——Rだよ」「君という存在を立証する者が騎士であればその者は君を殺しても構わず、農夫であるなら君を裏切っても構わず、聖職者ならば愛しても構わず、商人ならば裏切っても構わぬ——ということだね?」。僕はまたも頷いた。「それなら俺は——?」、自分が撮った写真を眺めながら自問自答するように唸るKへ、僕は応えた。「ジョーカーの役柄が残っていますよ」2018・9・07ノバラ座からのごあいさつ

2017年にこの場所で、澁澤龍彦没後30年『極楽鳥とカタツムリ』刊行記念として第一回ノバラ座を開催いたしました。

 そして今年1月、嶽本野ばら生誕50周年ということで第二回ノバラ座【make a book】を行いました。

第三回ノバラ座は、ライト商會さんのご厚意に拠り、その50周年に何かを作ろうということでオリジナル・トランプ(限定300部)の発売を兼ねるエキシビジョンになります。

 トランプの制作は兼ねてからやりたいことの一つでした。僕の場合、ロリータの定番モチーフであるのが大きな要因ですが、それと関わりなく古今東西、多くの芸術家達がこのアイテムに魅せられてきました。中でも一際、目立つのは『虚無への供物』と双璧をなす52枚のトランプと2枚のジョーカーを短編に見立てて編んだ『とらんぷ譚』を代表作に持つ中井英夫です。

 第一回のノバラ座の展示販売作品は、『極楽鳥とカタツムリ』に登場するモチーフで拵えました。第二回は会場で本を作成するというコンセプトの許、プリンターを持ち込み、来場者一人一人の行為を作品としました。今回はトランプの販売ありきでスタートするので、中井英夫に引っ掛けようという魂胆です。

 しかし、トランプだけでは間が持たぬ……。第一回目から用意したボタニカル・スペシメンなどの他に何を作ればいいか? 最初は思い悩みましたが、『とらんぷ譚』を読み返すうち、その文章の中から自然と顕れる着想がありました。そして、エキシビジョンの形をとっていますが、思えば、過去のそこでも僕は結局、文学をしていたに過ぎないと気付きました。

 紙に、本に、或いは電子メディアに記された言葉だけが文学ではないのだと思います。言葉を使う魔術の全てが、僕にとっては文学です。

 床に薔薇の花を敷き詰めたいのでは、ない。薔薇の花が敷き詰められた床——という文章を焼き付けたい。立ち込める芳香に埋没する文章に酔う時と同様の五感が痺れる文章を、この空間で満たしたい。そこに貴方を溺れさせたい。

 『とらんぷ譚』はサッシャ・ギトリーの映画『Le Roman d’un Tricheur. 』が1939年に日本で封切られた時の邦題だそうです。「だが当時中学生の私を魅了し尽くしたのは、『とらんぷ譚』というその邦題であった。」——中井英夫は記します。

原題を直訳すれば「ある詐欺師の物語」になる。

 嗚呼、僕は巧妙な詐欺師になろう! 

文面のみならずそれを書いていたあの人物、あの場所も何もかもが嘘だったのだと後で貴方を驚かせよう!

 では、約一週間で消え失せる砂上の楼閣での出来事をお愉しみください。

嶽本野ばら(作家)2018・9・08搬入日前日だから無理だってば! 敢えて公開するなら、BGMはピアノ曲が多いです。2018・9・09造花だが会場の床に薔薇の花弁を大量にばらまく。時間と労力が掛かることは最初から解っていたし、展示とは直接、関係ない。しかしやらずにはおれなかったのだ。作品のディスプレイで疲労困憊の身体に暇を与えず、ひたすらに散らす。誰もここまでを望みはしなかったし、褒められもしないだろう。特に秀逸なアイデアでもない。気が狂っているのだろう。単純に僕は気が狂っているのだ。芸術とか関係がない。僕の心象風景はこうなのだ。床一面には薔薇が敷き詰められていなければならない。僕の棲む世界——暮らす部屋の中には——。さぁ、明日から来客がある。早く寝なければ……。2018・9・10……11開幕する。